島の家
望月家
~地獄建ての母屋~
「和気満つる 人情島や 春の風 水蔭」I。人情大臣望月圭介翁 (一八六七|一九四一年)の出生地として知られた豊田郡大崎上島。岡山市生まれで望月翁と親交があり、異色の文学者江見水蔭(1八六九|一九三四年)が、亡くなる昭和九年の春、瀬戸內海の島巡りをし来島したとき詠んだ句。
望月翁の生家は竹原港から貨客フェリーで三十分、東野町白水に降りて島回りのバスに乗ると四分で矢弓に着く。バス停から歩いて一分、左側に道路からやや入り込んで、 武家の長屋を 思わせる 多門が両脇にある 広壮な門。門柱に “大望月,の表札がかかっている。母屋は間ロ三〇メートル、奥行き一二旨の 広大な一部二階の切り妻造り。柱やはりなど主材はッガ、回り縁はヒノキ、土台はクリ。建材ははめ込みに組まれ、ある一カ所をほどくとすべてパラバラになってしまう通称 ,地獄建て。という。家を建てたのは明治九年で翁の父東之助さん (一八二八ー一九〇三年)。基礎だけでも一年半かかったと言われる。
当時望月家は造船、海運、製塩、石炭、石灰、牧畜など手広く営む豪商。東之助さんは家業の傍ら明治初年、郵便事務取披所の 初代所長 であり、大串、 沖浦両村戸長。郡役所創立時の郡長代理、県議会初の議員を務めた後、村長に就任し明治三十一年、芸陽海員学校 (現広島商船高専)の設立に尽くした。
東之助さんの長男俊吉氏(一八五六ー一九一八年)は広島市議、県議。二男虎次郎氏は早死し、三男圭介は衆議院議員当選十三回、政友会幹事長、逓信、內務両大臣を歴任した。四男乙也氏 (一 八七六|一九四五年)は県議会議長。三人とも政界を志し大成した。圭介翁の遺徳をしのび二十九年、故池田勇人首相が音頭を取り遺徳顕彰会が結成され、翁が生前、西方の多島海と野呂山のながめを愛した家近くにある、加組の丘に銅像を建てた。島民たちは毎年、銅像祭りをしている。
戦後の望月家は斜陽となり、家は三十七年、村有、翌年に大崎町原田に住む今村豊松さん(83)が買った。今は法座などの集会所に使用されている。福本清町文化財保護委員長(60)は「大望月家は県が五十年七月から九月までに調査した古い民家四百棟の一つ」という。
望月翁の生家は竹原港から貨客フェリーで三十分、東野町白水に降りて島回りのバスに乗ると四分で矢弓に着く。バス停から歩いて一分、左側に道路からやや入り込んで、 武家の長屋を 思わせる 多門が両脇にある 広壮な門。門柱に “大望月,の表札がかかっている。母屋は間ロ三〇メートル、奥行き一二旨の 広大な一部二階の切り妻造り。柱やはりなど主材はッガ、回り縁はヒノキ、土台はクリ。建材ははめ込みに組まれ、ある一カ所をほどくとすべてパラバラになってしまう通称 ,地獄建て。という。家を建てたのは明治九年で翁の父東之助さん (一八二八ー一九〇三年)。基礎だけでも一年半かかったと言われる。
当時望月家は造船、海運、製塩、石炭、石灰、牧畜など手広く営む豪商。東之助さんは家業の傍ら明治初年、郵便事務取披所の 初代所長 であり、大串、 沖浦両村戸長。郡役所創立時の郡長代理、県議会初の議員を務めた後、村長に就任し明治三十一年、芸陽海員学校 (現広島商船高専)の設立に尽くした。
東之助さんの長男俊吉氏(一八五六ー一九一八年)は広島市議、県議。二男虎次郎氏は早死し、三男圭介は衆議院議員当選十三回、政友会幹事長、逓信、內務両大臣を歴任した。四男乙也氏 (一 八七六|一九四五年)は県議会議長。三人とも政界を志し大成した。圭介翁の遺徳をしのび二十九年、故池田勇人首相が音頭を取り遺徳顕彰会が結成され、翁が生前、西方の多島海と野呂山のながめを愛した家近くにある、加組の丘に銅像を建てた。島民たちは毎年、銅像祭りをしている。
戦後の望月家は斜陽となり、家は三十七年、村有、翌年に大崎町原田に住む今村豊松さん(83)が買った。今は法座などの集会所に使用されている。福本清町文化財保護委員長(60)は「大望月家は県が五十年七月から九月までに調査した古い民家四百棟の一つ」という。
田坂家
~今も残る多門と薩摩門~
藩政時代の豊田郡大崎島地方は十二ヵ町村(現五町)で、各町村に庄屋が置かれ、明治四年(一八七一年)の廃藩置県まで続いた。数村を支配する肝いり庄屋ともいわれた割庄屋や、郡内を七ブロックにした組合庄屋制があった。大崎島を治めた田坂家には、今でも多門と島津公が参勤交代の途中に同家に立ち寄るため造営した薩摩門が残っている。
安芸津港からフェリーで三十五分、大崎町大西に下りて島回りのパスに乗ると六分で原田に着く。バス停から県道を西へ百歩き原田川をはさんで右側にある。
田坂家の敷地は土べいに囲まれた千大百平方材。母屋は草ぶきだったが四十年前解体された。多門は全体が間ロニ〇メートル、奥行き五メートルあり、主材は杉とッガ。長屋造りの上、下多門の中央に門がある。左右の多門には二枚ずつの格子窓がついている。上多門に続いてさらに長さ一Oメートル、高さ一八メートルの白壁のへいがあり、とちらにも幅1・八メートル、高さ二·五メートルの門が造られている。へいの上の軒丸がわらや門の飾り支え木に薩摩藩の定紋がついている。多門は明治初年に建てたらしいが、薩摩門の年代は不明。
芸藩通志(一八二五年)によると、巻九十一の「故家」に原田村田坂氏ー「先祖を田坂又八とて、毛利家に仕え二貫 (二十石相当)を領す…。其子市右衛門当村に来住し、苗氏帯刀を免されて、里職(庄屋)を務む、今の直三郎まで八代…」と記されている。直三郎 (一七九ニ~一八六三年)は大崎組庄屋。天保十一年(一八四○年)に完成した大崎町大串の入相新開 (二〇L)の築造に力を尽くし今の西野干拓(五六じ)の基礎をつくった。後を継いだ東平(一八三〇~一九O八年)は割庄屋。戸長制が出来た明治五年、郡内六人の戸長の一人。同四十年、西野村長に就任したが翌年三月、辞職し同年七月死去。葬儀はかみしも、わらじばきで弔われたという。
家は昭和三年、元大崎町長平野松一さん(公)が買い取り、同十年から住んでいる。縦一ぶ、幅二六秀の杉板へ墨とん鮮やかに薩摩少将宿と書かれた看板が残っているが、横が切り取られ、年月日の文字が読めない。「昔のものを保存しようと多門を日曜大工で修理し、庭の手入れをしている。薩摩のほか 松平長門守休処の 看板もある」と平野さんは昔をしのんでいる。
安芸津港からフェリーで三十五分、大崎町大西に下りて島回りのパスに乗ると六分で原田に着く。バス停から県道を西へ百歩き原田川をはさんで右側にある。
田坂家の敷地は土べいに囲まれた千大百平方材。母屋は草ぶきだったが四十年前解体された。多門は全体が間ロニ〇メートル、奥行き五メートルあり、主材は杉とッガ。長屋造りの上、下多門の中央に門がある。左右の多門には二枚ずつの格子窓がついている。上多門に続いてさらに長さ一Oメートル、高さ一八メートルの白壁のへいがあり、とちらにも幅1・八メートル、高さ二·五メートルの門が造られている。へいの上の軒丸がわらや門の飾り支え木に薩摩藩の定紋がついている。多門は明治初年に建てたらしいが、薩摩門の年代は不明。
芸藩通志(一八二五年)によると、巻九十一の「故家」に原田村田坂氏ー「先祖を田坂又八とて、毛利家に仕え二貫 (二十石相当)を領す…。其子市右衛門当村に来住し、苗氏帯刀を免されて、里職(庄屋)を務む、今の直三郎まで八代…」と記されている。直三郎 (一七九ニ~一八六三年)は大崎組庄屋。天保十一年(一八四○年)に完成した大崎町大串の入相新開 (二〇L)の築造に力を尽くし今の西野干拓(五六じ)の基礎をつくった。後を継いだ東平(一八三〇~一九O八年)は割庄屋。戸長制が出来た明治五年、郡内六人の戸長の一人。同四十年、西野村長に就任したが翌年三月、辞職し同年七月死去。葬儀はかみしも、わらじばきで弔われたという。
家は昭和三年、元大崎町長平野松一さん(公)が買い取り、同十年から住んでいる。縦一ぶ、幅二六秀の杉板へ墨とん鮮やかに薩摩少将宿と書かれた看板が残っているが、横が切り取られ、年月日の文字が読めない。「昔のものを保存しようと多門を日曜大工で修理し、庭の手入れをしている。薩摩のほか 松平長門守休処の 看板もある」と平野さんは昔をしのんでいる。
木造五階
~船主ら接待用クラブ~
造船の島|豊田郡大崎上島。島民は豊臣秀吉(一五三七~一五九八年)が朝鮮半島に出兵した「文禄の役」に島のクスノキで軍船を造り従軍したと伝えられる。その後、造船とともに海運業が栄えた。全盛は大正の第一次大戦のとろで、木造船所が二十カ所を超え、千トン級の大型船から 機帆船など 大小各種の 木造船が相次ぎ海に浮き、”黄金の島”と呼ばれたころの名残を留めるのが、この五階建ての建築である。
竹原港からフェリーで五十分、高速艇なら二十分の木江町で、通称一貫目桟橋に降り西へ歩いて十分。海側は戦後、木造船から鋼船に変わった造船所が並び、後ろが急傾斜の山になっている。
竹原港からフェリーで五十分、高速艇なら二十分の木江町で、通称一貫目桟橋に降り西へ歩いて十分。海側は戦後、木造船から鋼船に変わった造船所が並び、後ろが急傾斜の山になっている。
この家は 大正年、 当時 造船業を営む 長尾源吉さん(一八七〇〜一九二一年)が、船主など接待用のクラブを兼ねた料理屋として木造四階を建てた。間もなく五階を建て増ししたといわれる。長尾さんは国鉄の石炭輸送用はしけ (三〇O一四○○+)建造の造船所と、二隻の船が一度に修理出来るドックを経営していた。太っ腹な性格で傍ら東野村議、郡会議員を務め、馬で町内を回っていた。 大正九年、 東野、中野両村一部が 統合し木江町が発足した。町制施行に力を尽くしたが翌年亡くなった。
主材は木造船の建材だった松と杉。間ロ七·二メートル、奥行き九メートル、延べ三百十平方メートルの入り母屋造り、四階は三十五畳敷きの大広間で宴会場、階下から三階までは階段に並び九十秀角でチェーン·ブロックで、つるべ式に料理が引き上げられる装置を取り付けていた。今のリフトである。また、四階の床柱はシタン、床板や違いだなはサクラで凝った造り。長い柱は使わず一階どとに継いでいる。部屋の四方に木造船のロッ骨の一部、通称マツラをはめ込んだがっちりした建物。
長尾さんの死後、階下は 貸事務所、二階は貸室。 戦後、四階は洋裁学院に使用された。三十年、石油販売業の大内章さん(三)が買った。一階は事務所、居間、炊事場、二階三室が居間。三階四室が客間、四、五階は倉庫に使っている。「六十年以上たっても雨漏りがせず、丈夫に出来ている。大きな部屋ばかりで使い勝手が悪い。文化財に保存しては、と言ってくれる人もあるが、いずれ建て替えなくては」と大内さんは話す。
主材は木造船の建材だった松と杉。間ロ七·二メートル、奥行き九メートル、延べ三百十平方メートルの入り母屋造り、四階は三十五畳敷きの大広間で宴会場、階下から三階までは階段に並び九十秀角でチェーン·ブロックで、つるべ式に料理が引き上げられる装置を取り付けていた。今のリフトである。また、四階の床柱はシタン、床板や違いだなはサクラで凝った造り。長い柱は使わず一階どとに継いでいる。部屋の四方に木造船のロッ骨の一部、通称マツラをはめ込んだがっちりした建物。
長尾さんの死後、階下は 貸事務所、二階は貸室。 戦後、四階は洋裁学院に使用された。三十年、石油販売業の大内章さん(三)が買った。一階は事務所、居間、炊事場、二階三室が居間。三階四室が客間、四、五階は倉庫に使っている。「六十年以上たっても雨漏りがせず、丈夫に出来ている。大きな部屋ばかりで使い勝手が悪い。文化財に保存しては、と言ってくれる人もあるが、いずれ建て替えなくては」と大内さんは話す。
木造三階
~13センチ角柱20数本で支える~
「造船とミカンの豊田郡木江町木江は、海岸が南北に延び、延長は三キロ』。山側は急傾斜で海岸沿いに民家が密集している。町内を回ると戦前建てられた木造三階が目立ち十指を数える。戦後の建築基準法で木造三階(高さ一三材以上)の新築は、柱やはりなど主要構造部の耐火式を義務づけた。とのため、純木造三階建てはやがて姿を消しそう。また、町中央の役場から西に島の最高峰で国立公園神峯山(四五三越)をながめると、木造三階と急傾斜地に、石がきを築いて敷地にした民家が並ぶ。
木造三階はかっぽう旅館、昭和十年、徳森勝さん(68)が三階を宴会場にと建てた。主材はッガと杉で、入り母屋造り延べ三百七十平方封。重量がかかるとあって柱は高さ九尉、一三秀角二十数本で支えている。ツガと杉は地物で当時としては一流の建物。合材、合板が多く使われる今では日本ッガは少なく、との柱一本が十五万円もすると建材業者はいう。
「四十年前に建築費六千八百円で契約したが、もろもろの費用を入れてざっと一万円かかった。当時は酒一八形 一円、大工の手間賃一円五十銭でしたからね。地盤沈下 で 家が傾き、四十五年の台風で屋根が傷んだため、その年にふき替えと柱を直した。次の代には建て替えるでしょう」と徳森さん。
徳森さん方から歩いて三分、通称三番道路(旧県道)に出ると神峯山の登山口に着く。登山道の延長三百はコンクリート舗装だが、幅二げで狭く平均二〇度の急とう配。道の両側に三十戸ほど石がきの家が並んでいる。石がきのある家としてとの地区の特徴でもある。通称岡上(おかじょう)といい、丘の家がなまったらしい。
岡上の中央に住む藤原礼一さん()は「曾祖父が約百五十年前に近くの山の石で築き宅地にした。明治十年どろ、祖父が 山の松と杉を切って わらぶきの 母屋を建てた。その後、かわらにふき替えた。そのとろはかわらぶきは庄屋への届け出がいった」と昔を振り返る。「麦を作っていたのを明治三十五年どろ、父が祖父の反対を押し切って大長からミカンの苗木五十本を買い植えた。とれが地区のミカンの始まりでは」とも話す。
岡上と付近に十二称のミカン畑があり、町は四十六年から三カ年継続事業で延長六百九十埼、幅三·五居の農道を建設した。今ではマイカーも行き交う。
木造三階はかっぽう旅館、昭和十年、徳森勝さん(68)が三階を宴会場にと建てた。主材はッガと杉で、入り母屋造り延べ三百七十平方封。重量がかかるとあって柱は高さ九尉、一三秀角二十数本で支えている。ツガと杉は地物で当時としては一流の建物。合材、合板が多く使われる今では日本ッガは少なく、との柱一本が十五万円もすると建材業者はいう。
「四十年前に建築費六千八百円で契約したが、もろもろの費用を入れてざっと一万円かかった。当時は酒一八形 一円、大工の手間賃一円五十銭でしたからね。地盤沈下 で 家が傾き、四十五年の台風で屋根が傷んだため、その年にふき替えと柱を直した。次の代には建て替えるでしょう」と徳森さん。
徳森さん方から歩いて三分、通称三番道路(旧県道)に出ると神峯山の登山口に着く。登山道の延長三百はコンクリート舗装だが、幅二げで狭く平均二〇度の急とう配。道の両側に三十戸ほど石がきの家が並んでいる。石がきのある家としてとの地区の特徴でもある。通称岡上(おかじょう)といい、丘の家がなまったらしい。
岡上の中央に住む藤原礼一さん()は「曾祖父が約百五十年前に近くの山の石で築き宅地にした。明治十年どろ、祖父が 山の松と杉を切って わらぶきの 母屋を建てた。その後、かわらにふき替えた。そのとろはかわらぶきは庄屋への届け出がいった」と昔を振り返る。「麦を作っていたのを明治三十五年どろ、父が祖父の反対を押し切って大長からミカンの苗木五十本を買い植えた。とれが地区のミカンの始まりでは」とも話す。
岡上と付近に十二称のミカン畑があり、町は四十六年から三カ年継続事業で延長六百九十埼、幅三·五居の農道を建設した。今ではマイカーも行き交う。