文芸

俳句

~自得翁の指導実る~

 

 ミカンと造船の大崎上島、豊田郡木江町の天満桟橋に上陸すると回送店横に「古趣創生」を唱え、俳誌 「さいかち」を主宰していた松野自得翁(85)の「人の一生いつも木の芽のふくように」の句碑がある。この石は愛媛県の面河渓の自然石で高さ二メートル、幅一メートル。横から見ると観音像に似ている。船で来る人、旅立つ人もとの句碑の角を曲がる。木の芽が吹くようなエネルギッシュな希望を与えている。
句碑は翁の指導を受けている木江神潮俳句会 (波多野克己主幹=五十二年死去)が町內百八十人から浄財を集除幕され、集めて建て町へ寄付した。四十七年四月に除幕され、自得、加寿女夫妻をはじめ俳人七十人が集まり 記念俳句大会を開いた。この日の句は島々を率て春の日が句碑に照る 自得
翁句碑海辺に建ちて木の芽晴れ 加寿女
自得選は
<天>天に日輸地に木の芽句碑光り合う 木江 波多野海風<地>造船もオチョロも町史春の月    美波 花本麗光<人>花捧ぐ児等は木の芽よ育つべし  西条 光岡一 芽自得翁は.群馬県生まれ前橋市東大室町、最善寺住職。明治末期から山水画家の山内多門 (1 八七八ー一九三三年)や同県出身の南画家小室翠雲(1八七四一一九四五年)に師事し絵を学び、大正九年に第一回帝展に入選した。日本南画院友。俳句はホトトギスの高浜虚子(一八七四|一九五九年)の門下生。昭和三年、俳誌「さいかち」を創刊し主宰した。三十年に瀬戸田町、耕三寺絵巻全五巻、三十一年には同寺五百羅漢図を揮ごうしている。木の芽の句は二十三年作のもので、同じ句の句碑は前橋市にもある。

潮涼しおちょろ旅情の灯をともす
船涼しおちょろ手をふる波の上
七月の一夜の恋ぞおちょろ船
船涼し船路伸びゆく潮平ら

松の月照らし給えり穢土净土この五句は翁が二十六年七月、木江町を初めて訪れたときの作。三十年九月の子規忌に公民館活動の一つとして木江神潮俳句会が生まれ、 毎年春秋の二回指導を受けている。三十三年六月に句会報の題を「木の江」から 「木の芽」に改称し、さし絵と談義欄は波多野克己さん(68)=俳号海風=、句会日誌を望月精三さん(K)=同清窓=が受け持った。句会は約二百五十回に及び「木の芽」は百八十五号に達していた(五十年三月)。

 望月さんは三十年から十一年間、木江小学校長を務めた。三十五年、鉄筋三階建ての新校舎が完工し、自得翁からタイの絵に添えて「新校舎の学門の窓風薫る」の色紙が贈られた。この色紙は今も木江小校長室に掛けられている。「会が発足したとろは町内に写真、絵画、謡曲などの会もあったが、残ったのは俳句会だけ。ひととろ会員が三十人を超えたが今は十二人に減った」と望月さんは寂しそう。
波多野さんは五十年一月「俳句と医師と人生」の随筆集を出版した。B6判、三百五頁、三十三年六月句会での自得翁作 「バラ真紅似し人あらば命すてむ」の裏話を記した「茶の間」の章から始まり、軍医で洞窟 (どうくつ)病院で働いた「ラバウルの戦後」、千年枝夫人(三)と共著の「句集真珠発刊」など八十八回分をまとめている。波多野さんは当時「自得先生が島にまいた種が実ったものです。昨年夏、東京でお会いしたが足腰が弱っておられた。長生きして欲しい。俳句会は島の文化向上に細くとも長く続けたい」と話していた。