港
港
港は島の玄関である。往く人来る人、みなまず港の桟橋に第一歩を印す。小さな漁船がたむろしている港、すぐその先にミカン山が続く港、山はだにくっつくように港から並ぶ家々…。そとに島の顔がある。かつては遺唐使たちを泊め、あるいは遠国の北海から、また異国の豊かな物産も運んだ船路の、ひとときの憩いの場にもなった港である。船のエンジンの響きが静かになった時、ふと安らぎを感じる港でもある。島々への出入りは港に始まって港に終わる。
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木江港
~造船業とともに盛衰~
大崎上島の東海岸中央部にある木江港は東北に開け、前に長瀬戸と呼ばれる水道を隔てて愛媛県大三島と向かい合っている。後ろに内海を一望する国立公園神峯山(四五三M)を控えた天然の良港。船着き場は家号から付けられたという「一貫目」と菅公のゆかりで「天満」の両桟橋。竹原|大長間貨客フェリー、同間と三原|大長間高速艇の中継地で今治|木江間フェリーの終点。昭和五年、指定港に編入され、瀬戸内海の中間寄港地として整備された。四十九年三月には東海岸に国民宿舎「きのえ」がオープンし、観光に一役買っている。古くは甲の字で「きのえ」といい、甲之浦であったと伝えられる。南北朝時代は「城の辺」、安土、桃山に木江谷になったという。港は亨保年間(二百六十年前)に木江沖航路が開設され出入船が多くなった。造船は木造船|帆船|機帆船|小型鋼船に移り変わり、日清、日露、一次大戦、二次大戦の戦時中は木造船で栄え、戦後はパニックが起とっている。なかでも大正七年は港内に二十工場があり、千ジクラスの木造船四十隻を建造し「黄金の島」とうたわれた。ロンドンタイムスに広告を掲載した造船所があったほど。昭和十一年、船大工十三人をマレー半島コタバルに派遣し、一躍世界に名をなした。長かった木造船から小型鋼船に切り替わったのは「おちょろ舟」の灯が消えた二十三年どろ。いまは七造船所で五干五百、船台をはじめ、二千、から五百*シ未満の計十二船台と修理用ドック二船台がある。船の種類は貨客フェリー、貨物船、タンカー、砂利運搬船、冷凍船などバラエティーに富む。時代の要請で造船所の協業化が進められ、沖浦、明石地区に造船団地の建設が計画されていた。港の乗降客はロでとぐはしけから、旧標的艦の町営桟橋を経て県営となった。「公共性のある仕事だが、早朝から夜まで一日六十回も桟橋に出る長時間勤務。人手不足で労働条件は昔のまま。台風時は桟橋を守るのに苦労している。船の大型化に伴い、フェリー兼用の桟橋にしてもらわなくては」と松本博天満回送店主(互)はいう。国民宿舎がオープンし、四季を通じての魚釣り、夏は水泳、秋はミカン狩りを柱にし、観光客の誘に懸命」と高田大介町長は意欲を燃やしていた。懸案だった木江|沖浦ー明石間のパスも開通し、島の交通に花を添えている。
沖浦港
~「観光漁船」で活路を~
大崎上島の木江港からフェリーで二十分の豊田郡木江町沖浦港は、主に一本釣りの漁船約五十隻の基地になっている。漁場は沖合のタイ釣りや、各種内海魚の豊庫といわれる安芸灘などで、限られた行動範囲である。二、三月は海が荒れる日が多く老齢化して来ている漁業者たちは、危険を避けて休む日が多い。若い人たちは年末(四十八年)からスズキがよく釣れるので、元気よく早朝から海へ出かけている。四月中旬からはイカ釣りが始まり、天候もよくなるので港は活気づく。とのとろから漁船の半数の二十五隻が、観光漁船に早変わりして釣り客相手の商売になる。「格安でよく釣れる漁場へ案内してくれるし、サービスも悪くない」と沖釣りのマニアたちから好評である港には県が四十八年から五カ年計画で、二カ所の荷揚げ場と桟橋をフェリー兼用の大型化するなど整備を進めている。そのため港内に鋼矢板が打ち込まれ活気が見らオープンする国民宿舎のお客吸収など対策も早くやりたい。陸釣り用にギザミやカサゴなどの稚魚の放流を県に頼ねばならない」などと抱負をもらす。四十八年は汚染魚騒ぎで大きな痛手を受けた。五、六月にサワラが豊漁だったのに、汚染魚艦動の影響からキロ七百円もしていたサワラが二百円以下にまで暴落してしまった。上島漁協は近くに汚染源になる工場がなく補償を要求しようにも相手がおらず泣くに泣けぬ状態だった。港の周辺は古くは葛ノ浦と呼ばれた。応永年間(一三九四年|一四二七年)に大崎上島が小早川氏の所領となって、一族の土倉冬平が港近くの城ノ鼻丘に葛城を築造していたと伝えられる。徳川初期からは沖浦村と呼ばれていた。
観光漁船の方は釣りブームになり出した十年前くらいからで、当時、大崎上島漁協(高田庭和組合長、正組合員四十二人)は簡易宿泊所まで造ってスタートした。観光漁船は春から秋にかけてのシーズン中の日曜、祝祭は満員の盛況ぶりだが、高速船やマイカーでくるお客が多く、せっかくの宿泊の方はちょっと思ったほどの利用というわけにいかぬようだ。
悩みは過疎化で漁業後継者がおらず船頭さんたちの老齢化が上げられる。それに物価上昇も大きく響いて船価がグッと上がり、新造船の資金繰りにも困っている。沖原五六専務()は「一月末 (四十九年)に就任したばかりだが…。魚釣りをキャッチフレーズにして三月八日に内海の漁法は改良や近代化で、船も新型化する方、養殖の時代に移りつつある。漁船の新型化はロから電気着火、ディーゼルエンジンになり、とれまで三時間で漁場にたどりついていたのが三〇分で行ける。船頭の上利静幸さん(IO)は「観光漁船用にと四十年にローリングの少ない船を造ったがもう古くなった。四十八年初めてプラスチック船二隻が、観光漁船に仲間入りしている。プラスチック船にしたいのだが一隻四百万円以上もかかるんではねー」とポッリ。
明石港
~「槙肌縄(まきはだなわ)」で知られる~
「まきはだ」の産出港の明石は木造船と盛衰をともにしたのは言うまでもない。古くは明石潟と呼ばれ、徳川初期に明石方、昭和三十年になって木江町明石と変わった。「まきはだ」の生産は全国で奈良県桜井市とととのニカ所だけ。享和元年(一八〇一年)に与頭某が当時との地方で盛んに栽培していた染料の紅花の紫根を販売に大阪へ行っていて「まきはだ」の製造技術を習得して帰ったと伝えられている。有利な事業とみた藩はさっそく原料ヒノキの皮四十二貫(一五七。五*)について運上銀二匁を課した。安政三年(一八五六年)には木製の合鑑を出し、とれを四十二枚に制限していた。合鑑がない業者は製品を没収される。御止め産業,にまで発展した。との制度が明治に廃止されると、製造が伸び全国の七○%を占めるほど栄えた。戦後の二十七年に有志たちが先人をしのび旗肌元祖記念碑を建てた。当時の池田勇人蔵相が碑文を揮どうしている。製法はヒノキの皮を天火で干し、上皮をはいで火力乾燥したあとベルトハンマーでたたき、水にぬらしてなう。いま製造所が二業者と奈良県から半製品を購入し加工販売する八業者の計十業者がいる。記録に残っている戦後全盛のとろの三分の一に業者は減っている。-帆船時代は需要も多く、十年ほど前までは「まきはだ」も盛んだったが、いまは需要も漁船に限られ、あとは木ぶろの水漏れを防ぐ打ち込みに使われるぐらいである。二十三年から販売業をしている浅井信弥さん(H)は半製品を加工した“まきはだ。と船くぎを、大分、宮崎両県に販売している。一年に四、五回船で出かけるが一航海に約四十日かかってます。だがプラスチック製の漁船が増えてきているので“まきはだ。の寿命もあと十五年くらいでしょうか」と寂しそう。明石の将来について「対岸の愛媛県岡村島正月鼻からの架橋を実現さして、観光開発が残されている道でしょうか」と森田武徳町議(究)は県の中部島架橋に期待をかけている。
鮴崎(めばるざき)港
~「メバル」も語りぐさ~
白水港
~かつては一面が海~
白水港のフェリー発着場、桟橋それに荷揚げ場や待合所など港湾施設は、完備されている。桟橋は生野島と契島の児童、生徒が通学してくる町営のスクールボートが発着し、上島三町の急患を本土へ運ぶ救急艇が待機している。また本土との間に点在する船島、白島、生野島などへのミカン生産者が使う渡り作りの農船や、出番を待つ釣り船が港内東側の船だまりにいる。西の方にある二子島は内海の 二見ケ浦,と言われ、澄み切った海に浮かんで名物になっている。
白水港付近は「古老の話によると港から五百材入った陸地部の岩にカキ殻がついていたといわれ、昔は白水地区は一面海だった。一本の老松のある白水郵便局近くは小島だったらしい。その島が天然の防波堤の役を果たしていたのでしょう」と町史編さん委員の福本清さん(充)は推測している。福本さんは三十七年出版の町史上巻の著者で、いま下巻の資料を集めている。
芸藩通志には「埠頭四カ所が東野村古江谷、下り谷、白水、矢弓にあり、船つなぎまた堤、浪よけのために設く」とあり波止場は当時すでに造られていた。西側の防波堤は明治初年に築造され、台風などの災害で何回か壊され建設が繰り返された。
白水港一帯は埋め立て地で、二十五年から本格的な失対事業でスタートし、十一年かかって二·五むを造成した。中央部分に県道が通り、海側にかけて港湾施設のほかに老人の憩いの家「福寿荘」や商工会館、白水電話交換局にミカン集荷場、それに町民ブールまである。反対の山側には農協や商店街、町営住宅も建設され町の中心地になっている。町は四千平方試の残地にコミュニティセンター兼役場庁舎の建設を計画しているが、総需要抑制と物価の上昇で延期されている。
過疎化が進む島の町で、白水地区は住宅団地ができ十年前より六十世帯も増え二百十七世帯、六百六十人。埋め立て地特有の地盤の変動で豪雨、高潮時に下水管がつまり浸水するので、地区民は一カ月に一回、総出で下水清掃をしている。「下水管の清掃のおかげでカやハエが少なくなりよくなった。ゴミを海に捨てないという意識も高まり、海もきれいになったようだ」と地元の人たちは成果に満足している。
「竹原行きフェリーは始発午前六時、帰りの終便が午後九時十分なので便利がよい。とのうえは年末 (四十九年)開通予定の山陽新幹線が三原へ停車するので、三原への高速船が寄港してくれればいうととはない」と東野中学校教諭で地元区長の長谷川南城さん(四)は島の発展に思いをめぐらしている。
大西港
~戦後に地方港湾指定~
芸藩通志に大崎町所有の船は八十四隻とあり、明治三十年どろまでは一本マストの帆船。阪神、日本海沿岸、北海道方面へ、当時地元の特産食品を輸送し、米、肥料雑貨、水産物を積んで帰港していた。始終二十隻くらい出入りし、年末には百隻を超える帆船が港を埋めた。海難事故の多発に対し明治四十三年に、村の船主が大西帆船相互救済同盟組合を設立し、救済に当たったところ島内から加入があり、一時は数百隻に及んだという。組合は帆船が機帆船に変わり戦時中に解散している。
「大正の初め 日本一の千、の 木造帆船が 港内で進水し、島内の小学校は授業を休んで見学に行った。当時の船は百、シクラスだったので、 三本マストの 大型船 を見ようという人たちで、造船所の裏山も埋まったほどだった」と広島商船高専で学生に柔道を教えている岡本俊三。七段(K亡)は当時を回想する。港のシンボルになっている大崎上島三町の共同選果場
=新町希場長(三)|は島のミカン農家(二千1二百戸、千ヘクタール)の集荷、選果、出荷を受け持っている。四十七年はミカンの豊作、大暴落で農家は痛めつけられたが、四十八年は四十九年以降のミカン競争を考え、足場を固めるため選果を厳選した。との結果、上島ミカンの一級品は東京、阪神市場の優秀銘柄、二級品も地方市場のトップグループで販売された。鳴かず飛ばずだった上島ミカンが、四年目でやっと評価されだした。ミカン の七○%が大西港からトラックで、三〇は選果場の接岸施設で船積みし、国鉄糸崎駅経由で出荷されている。「ととしは天候に恵まれると全国生産量は四百万、の大台にのりそう。加工用ミカンの値段は前年と変わらない。小玉、大天玉を追放しL.M級の秀品を100%生産するよう、農家が真剣に取り組むととがミカンに生きる道だ」と新町場長はきっぱり。町は大串、瀬井、大西、長島の各地区や国立公園神峰山(四五三述)を含め海洋性レジャーセンターに開発し、国民の「憩いの場」にする構想である。